合理的な手法を踏まえた上でのアンチテーゼなら良いと思うだよ
アンチテーゼというよりは目的としては友人の言葉を借りますが「表現形態のもつ意義を純化する」試みなんです。たとえば絵画の場合,表現様式が説明的であるほど絵画である必要性が無くなります。(本来,絵画は写真機が発明される以前に,見たものを写し留めるための技術として進歩しましたが,マルセルデュシャンの「泉」以降,絵画の再定義が求められたという流れがあります。)イラストレーションの場合はグラフィックデザインなので,伝達が目的になるため求められるものは状況説明になります。そして今僕がぶつかっているのは,僕は説明化すると削ぎ落とされてしまうものを内包したそのものこそが実像としてリアルであり真に迫るという考えなのですが,それは合理化とは相反する位置にあるため,結果的には人の文明的進歩に逆らっており(元をたどれば類人猿が物を活用する発明を手にした地点まで帰する)動物回帰思想に終始してしまう恐れがあるという事です。そこで今一度問題点の正体を明確にしておく必要があると感じています。
なるほど、深い。わかるきがする。突き詰めて考えてますなぁ。なぜこの絵が良いかと聞かれたら、「デッサンやパースが整っているから」などという合理的な理由じゃないですもんね。それを突き詰めたら写真でいいじゃん、って話になる。線が気持ちいいから、趣があるから、という非合理的な理由も含まれる。かと言って非合理的な要素だけでは汚いだけのゴミになっちゃう。じゃあ芯にあるものは何か理論的に説明しろと言われると言葉にできない。って話に似てると思いました
右翼の反対は左翼じゃなくて、右翼の反対は右翼じゃないってことじゃない。満足の反対は不満足じゃなくて、満足してないだけみたいな。だからなんでもかんでも対立させるのも不毛な気がするし、ぜんぶ別の軸な気もする。コメント読むと、問題点の正体は循環した表現形態そのものであって、結局歴史と同じことをやりたいのでは?
今僕がしている製作の方向性を美術史を例にとって説明しましたが,本来の自分の製作動機は美術史的な開拓に挑戦しようという意識ではなく,どれだけ自分自身の製作の中に生活の意義を求められるかという事だけです。その過程で歴史を追体験してる部分は感じていますが,発端としては,文明進歩の嫌悪する部分と,それらとは一切関わりなく生活する事ができないもしくは恩恵を受けている現実という実生活での矛盾に因ります。よって問題点は美術史上にあるのではなく,生活観念上にあると考えています。
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5 件のコメント:
合理的な手法を踏まえた上でのアンチテーゼなら良いと思うだよ
アンチテーゼというよりは目的としては友人の言葉を借りますが「表現形態のもつ意義を純化する」試みなんです。
たとえば絵画の場合,表現様式が説明的であるほど絵画である必要性が無くなります。(本来,絵画は写真機が発明される以前に,見たものを写し留めるための技術として進歩しましたが,マルセルデュシャンの「泉」以降,絵画の再定義が求められたという流れがあります。)
イラストレーションの場合はグラフィックデザインなので,伝達が目的になるため求められるものは状況説明になります。
そして今僕がぶつかっているのは,僕は説明化すると削ぎ落とされてしまうものを内包したそのものこそが実像としてリアルであり真に迫るという考えなのですが,それは合理化とは相反する位置にあるため,結果的には人の文明的進歩に逆らっており(元をたどれば類人猿が物を活用する発明を手にした地点まで帰する)動物回帰思想に終始してしまう恐れがあるという事です。
そこで今一度問題点の正体を明確にしておく必要があると感じています。
なるほど、深い。わかるきがする。
突き詰めて考えてますなぁ。
なぜこの絵が良いかと聞かれたら、「デッサンやパースが整っているから」などという合理的な理由じゃないですもんね。それを突き詰めたら写真でいいじゃん、って話になる。線が気持ちいいから、趣があるから、という非合理的な理由も含まれる。かと言って非合理的な要素だけでは汚いだけのゴミになっちゃう。
じゃあ芯にあるものは何か理論的に説明しろと言われると言葉にできない。
って話に似てると思いました
右翼の反対は左翼じゃなくて、右翼の反対は右翼じゃないってことじゃない。満足の反対は不満足じゃなくて、満足してないだけみたいな。だからなんでもかんでも対立させるのも不毛な気がするし、ぜんぶ別の軸な気もする。
コメント読むと、問題点の正体は循環した表現形態そのものであって、結局歴史と同じことをやりたいのでは?
今僕がしている製作の方向性を美術史を例にとって説明しましたが,本来の自分の製作動機は美術史的な開拓に挑戦しようという意識ではなく,どれだけ自分自身の製作の中に生活の意義を求められるかという事だけです。
その過程で歴史を追体験してる部分は感じていますが,発端としては,文明進歩の嫌悪する部分と,それらとは一切関わりなく生活する事ができないもしくは恩恵を受けている現実という実生活での矛盾に因ります。
よって問題点は美術史上にあるのではなく,生活観念上にあると考えています。
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