結局のところ,真実なんてものはないのだから
考えるという行為は自己欺瞞と同じ事だと感じる。
凝り固まった思考の大人と衝突するような事は多々あるが,
大人が考え方を凝り固ませていく理由は,自分を惑わせる要素として存在する膨大な情報群を分別する事で,自分を安全に導くための方法なのだろう。
実際のところそれは不安要素が根本的にこの世から消滅したわけではないのだが,理論武装する事でとりあえずは自分を納得させる事ができる。
しかし忽ちそこから新たな不安が零れ落ちる事に気付くので,不安の芽を摘み取る為に考える必要がまた生まれる。
そもそも,好奇心の原点は防衛本能ではないか。
わからない物をわかるようになりたいだとか,知らない事を知りたいという欲求が生まれるのは,裏を返せば不安要素を取り除きたいという心理が働いているからのように思う。
不安要素の存在は,動物観点からして自分の生命を脅かす危険性があると判断されるため,それを払拭するための手段として好奇心が機能しているのではないか。
また理解は同一化に繋がる。
こと性的な問題に関しては好奇心は直接的に同一化へと導くが,より身を安全へと導く方法としては,不安要素を咀嚼して自分の一部に取り込んでしまうというのは同義だ。
防衛本能(死の暗示)の正体が同一化だと考えると一つに纏まる。
(極言すれば同一化は死による地球との同一化をもって完結するということなのでなんと不毛なことか・・・せ)
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